《資料》 文 学 の 仕 事 ―― 諸家の文学観に学ぶ
        
戦後80年 歴史をいかに物語る 〈インタビュー〉 
作家 奥泉 光  
――朝日新聞 2025.8.13――

定着した受難神話/経験化されぬ失敗/継承問い直すとき

(…)

 ――戦争記憶の継承に問題があったということですか?
 「これまで作品を書くにあたり、様々な将兵の証言や記録、戦争文学を読んできました。戦死者の大半が餓死や病死という非合理な作戦、誰も自分が戦争を始めた自覚がない『無責任の体系』、銃後の民の体制協力、鬼畜米英への敵意をあおった新聞……。そうした『失敗の本質』を表す数々の『体験』は、しかしながら、国民集団として反省的に共有され『経験化』されることはなかった」
 ――何が「経験化」を妨げてきたのでしょうか。
 「国民国家の統合には、何らかの『物語』が必要です。明治国家は神話を引っ張り出しましたが、戦後日本は、尊い犠牲を礎にゼロから再出発し平和と民主主義を手にした、という『建国神話』が核になりました。そこでは、戦争の元凶は軍部であり、民衆や天皇はどこまでもイノセントな存在になります」
 「この物語はGHQ(連合国軍総司令部)と政府の合作ですが、定着に最も大きな役割を果たしたのは、受難の語りを主調とするメディアと、小説をはじめとする文化芸術作品でした」
 「例えば、戦後の戦争小説の名作とされている『ビルマの竪琴』では、戦争の主体である国家の姿と植民地支配の歴史は見事なまでに消去されている。戦友の弔いのため僧侶となり現地に残った主人公は、あくまで犠牲者であり、幻想としてのアジア的自然性と仏教的世界観に回帰する、慰安とイノセントに満ちた結末となっています」
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 ――国民の側は、なぜこうした物語を積極的に受容したのでしょう。
 「一つは、加害性を忘却し犠牲者としての自画像に安住するのに好都合だったから。もう一つは、戦後の一国平和主義に適合的だったからだと思います」
 「国民的作家と言われた司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、輝かしい明治と明るい戦後を接続し、両者に挟まれた『狂った戦前』を異形視します。『まことに小さな国』は一時版図を広げたものの、敗戦で再び小さな国に戻った。もう二度と戦争はまっぴらだ、という強い嫌戦感とともに――。そして植民地支配された人々は、戦後日本人の物語からは消えてしまった」
 ――ただ、そうした歴史物語は、実証的な歴史学の知見で正されるのではないでしょうか。
 「史料の地道な発掘分析を通じて史実を提示する歴史学の役割はきわめて大きいし、ますます大きくなっていくでしょう。しかし、『事実』を見いだし、それを記述するのは単純な作業ではない。歴史家の方々と対談して共に確認したのは、むしろ歴史と文学との近似性でした。」
 物語というのは、人間の基本的な認識の枠組みです。私たちは物事を、因果関係などの物語構造で捉える。その多くは虚構です。家族の不幸が、先祖の悪行とか方位に原因があるとされたりする。善悪二元論も、物語が抱える根本的な感覚です」
 「それでも私たちは、物語なしでは現実を認識できない。ものを語るという行為そのものが、避けがたく物語を呼び込んでしまう。歴史叙述も、物語とは無縁ではないのです。むしろ、歴史は客観的だという神話を解体することこそ重要です」
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硬直化を解毒する/対話と批評の「場」/粘り強く開放を

 ――客観性を期待できないなら、それぞれの歴史語りの質を上げていくしかないと?
 「物語と物語がせめぎ合い、史実を奪い合うにしても、闘争のルールとして客観性は必要です。でもそれは実践的に実現していくしかない。そして、その方法は『対話』だけだと思います。それは、異なる歴史観を持つ者同士の対話とは限らない。優れた歴史書や史料は、それ自体、複数の視点や声を含有し、それぞれを相対化する多層性がある。一つのテキスト内に『対話』があるのです」
 近代小説の大きな特徴は、 物語の構造を備えながらも、それを批評し、場合によっては解体するものだという点。小説というジャンルが戦争を扱う意味があるとしたら、多声的に戦争の経験を描くこと、それによって、固着し硬化した『分かりやすい』物語が持つ強力な作用を解毒することです」
 ――単一の物語に世界を閉じ込めない、ということですね。
 「でも、一色に叙述を染め上げてしまう小説のほうがはるかに多い。作家の大西巨人は、それを『俗情との結託』と批判しています。大西が書いた『神聖喜劇』や大岡昇平の『レイテ戦記』は、兵士個人と軍隊組織との関係性が、複層的な語りによって描かれています。戦争を敵・味方双方から複眼的に見ることは必要ですが、さらに第三項、第四項がある。歴史に押し流された小さな声もある。それらを聴き再現するのは、小説家の大きな使命だと思います」
 ――それが、俗情と結託した物語を解毒することになる。
 「物語は劇薬です。文学は、政治や経済と違って言葉以外に何ら裏打ちされるものがない。にもかかわらず人を突き動かしてしまう危険物です。実際に多くの文学者が戦時下、『満蒙は日本の生命線』『無敵皇軍』、あるいは玉砕や特攻を美化する物語に加担してきました」
 「今は戦争記憶の『歴史化』の潮目にあります。80年という時間の経過は、直接の体験者による反証を、物理的に不可能にしてしまう。都合のよい史実のつまみ食いによる物語化がいっそう進む時代を迎え、それは映画や漫画、アニメという娯楽媒体に組み込まれることで伝播(でんぱ)力を増しています。とりわけ死者をめぐる物語は強い力を持つ」
 「『戦争の記憶』が『記憶の戦争』の具になるなか、歴史に学ぶという教訓に導く方法や、史実に照らして不正確さを指摘するだけでは、もはや限界があると思います」
 ――「信じたい歴史しか信じない」という傾向が、世界中で広がっているようです。ロシアのプーチン大統領は、ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性を強調し、イスラエルはホロコーストの受難を絶対的正義の根拠かのように扱っています。
 「支配の正当性のため、あるいは国民を束ねるため、国家は歴史を作ります。それは権威主義国家に限りません。教科書検定もある意味そうですが、国家による『正史』つまり『正しい物語』の独占や、歴史語りの規制は、極めて不健全で危うい」
 「歴史は、物語から逃れられない以上、結局はその並立に行きつく側面がある。それでも人々の記憶とその痕跡である記録を媒介に、それぞれの物語に対して批評性と対話性を持つことで、歴史修正主義を退場させることはできるはずです」
 「もちろん時間と労力と根気が要る作業です。しかし、硬化した物語の力を解毒するには、繰り返し問いかけられるべき対話の『場』を粘り強く開放し続けなければならない。それは、誰しも間違い得ることを前提とし、失敗から学ぶことが出来る民主主義というシステムを維持することと、同義のはずです」

 (聞き手・石川智也)

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